3分間の変身劇
ありがたきかな、トイレという空間

(記)庭野すみれ


  野山に分け入って、足下の可憐な花々に目を凝らすのもいいけれど、都会の喧騒も好きだ。 どっと繰り出す人混みの中に身を置くと、「これほどの人間が、いったいどこから湧き出してくるのかしら」 とあきれつつも「ああ、今日も生きてるぞ」という心地がする。

  柏駅のラッシュ時ときたら、これまた大変なもので、もたもたしていると突き飛ばされそうな 勢いだ。みんな脇目もふらずに目的地に向かってまっしぐら。緊迫した空気がみなぎり、エネルギー でムンムン。「みんな機嫌よく頑張っておいで!」と、背中にむけてエールを送りたくなる。

  どっと繰り出すといえば、この夏はじめて手賀沼の花火大会を観に行った。東武線に乗り込むと、 それらしい親子づれやカップルでいっぱいだった。このところ着物姿にはめったにお目にかかれないが、 その日は若い女性たちの浴衣姿で車内が華やいでいた。

  私たちのそばに、紺地にピンクの花柄を散らした浴衣を着た17,8の女の子が、うちわを片手に立っていた。 いかにもすくすく育ったお嬢さんという感じで、「まあ、きれい」と、私はのんきに見とれていた。しかし 着付けをやっている友人の目は鋭かった。浴衣の前身頃の打ち合わせが逆になっているというのだ。

  「ねえ、誰に着せてもらったの?着方が左前になってるけど」。よせばいいのに肩をたたいて、教えてあげている。 「えっ、ウソー。やだあ、お母さんたら。どうしよう・・・」と、今風に言えばすっかりパニくっている。 「そのままでも誰もきづかないわよ」と、気安めを言う私。でも彼女は偉かった。帰ってでも着直したいと言う。

 そうこうするうちに、電車は柏駅に着いてしまった。「いいよ、すぐ直してあげるから」と友人は彼女を駅のトイレに 連れて行き、目立たないところで帯をゆるめ、あっという間に着直させた。さすがは着付けの先生。「ありがとう ございました」と、彼女は晴れ晴れとした顔で雑踏のなかに消えた。

  こんなとき、トイレという空間のなんとありがたいことよ。ただ用を足すというだけの目的ではない。思えば いろんな事情をかかえた人が駆け込む場所でもあるのだ。気分が悪くなった人、破れたストッキングを 履き替える人、暑いからと下着を脱ぎに入った知人もいったけ。あるいは奪った札束を数えるスリのお兄さん (これはちと困るが)、などなど。

  むかしの公衆トイレは、暗い、汚い、臭いの三拍子がそろっていて、ドアを開けたとたん、逃げてきたくなる ようなところが多かった。でも今は、おおむねきれいになった。東武線柏駅構内のトイレには、なんと星野富弘 さんのカレンダーがつつましやかに掛かっていて、胸にぽっと小さな灯りがついた。

  化粧室や、赤ちゃんのおむつ交換場所も兼ねているデパートのトイレは、どこも広いスペースで明るく清潔だ。 だが先日買い物のあと、何気なく立ち寄った私は、思わずたじろいだ。居心地が良いせいか、女子高校生五人 あまりがたむろしていて、こっちをジロリ。

 負けてなるものかと、平静を装いつつ「ちょっとごめんなさいね」。するとあっさり、「ハーイ、どうぞ」とゆずってくれた。 小言のひとつでもと構えていたこっちとしては、いささか拍子ぬけ。外見と違って素直ないい子たちだった。

  小学校のトイレもすっかり様変わりしているそうだし、これがトイレかと思うような立派なものも多い。陶器市でにぎわう 佐賀県の有田町のトイレは、さすがに陶器のぬくもりを活かしたつくりで、印象的だった。

  さ〜て、我が家のトイレはというと、全国から買ってきたり、いただいたりしたお守りの数々を壁面に飾っている。 「お守りをトイレに飾るとは何事だ」と同居人は不満らしいが、お客様の間ではユニークと好評だ。「玄関とトイレは、 その家の顔」とかいうものね。

  毎日お世話になるトイレは当然きれいであってほしいし、公共のトイレは使う方もマナーを守りたいものだ。 さあ、今日はどこでお世話になることやら。そろそろ出かけるとしよう。