2004.12
いつか行ってみたいと願っていた中村順二美術館に、ついに行ってきた。柏のイン フォメーションセンターで開かれた2001年の作品展でふと目にして以来、鮮やか な色彩が目に焼きついて離れなかった。 1971年の大晦日、父・勝さん、母・宮子さんの次男としてこの世に生を受けた順 二さんは、生まれつき染色体の数が多いダウン症による知的障害者であった。残念な がら1999年11月、27歳の若さで急逝。生前に描きためた500点を超える作 品は、今も多くの人に感動を与えている。 | |
常設展示室 | |
順二さんを育てるにあたって、「医者や学者の間を駆け回って右往左往するより
も、普通の子として子どもの中で育てたいと思いました」と、宮子さん。ともすると
行政や周りの無理解で社会から隔絶され勝ちであるが、そうならないためには、親は
戦うしかない。 中学校では普通学級に学んだ順二さんは、卒業時に先生方から「順二くんがいたか ら、いい教育ができた」と、感謝されたという。障害児の世話をしているつもりの人 間が、実は逆にたくさんのことを教えられ、心の財産をもらうというのはよくあるこ とである。 |
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尾瀬をあるく順二さん | |
順二さんにとってのもう一つの学校は、両親と行く国内外へのスケッチ旅行であっ た。なかでも好んで訪れたのが、青ヶ島、小笠原、三宅島、粟島といった島々であ
る。ハンディーを持った順二さんにとって、大変な試練だったに違いないが、数々の 大自然との出会いは、心と身体に多くの良い刺激をもたらしたに違いない。 生まれながらにすぐれた色彩感覚をもっていた順二さんは、保育園のお絵かき教室と 出会い、めきめきその才能を開花させた。とくに配色の巧みさはプロの芸術家も舌を 巻くほどで、順二さんの活動を見守ってきたという日本画家・北尾君光氏は「上質な 魂を持つ画家でした」と評している。 | |
順二さんのご両親 |
あるとき、テレビに映ったゴッホの自画像を見て、めったに褒めない順二さんが、
「この絵うまいね」とつぶやいたという。不運な生涯を終えながらも、燃えるような
「ひまわり」の絵で世界中の人を魅了しているゴッホ。順二さんの心をとらえたの
は、何だったのだろうか。 展示室に入ると、鮮やかな色彩で画面から溢れんばかりに描かれた「赤い花」が目に 飛び込んできた。これは10歳のときの作品で、展示会でも「ものすごいエネルギー を感じる」「力をもらった」と、いろんな人から賞賛された絵である。 絵を描くときの順二さんは、畳にあぐらをかき、デッサンはせず、なんの迷いもなく 一気に描き上げたという。絵の具は、水彩、顔彩、色えんぴつ、アクリルなどを使 い、紙は天ぷらの敷き紙に使う半紙、布など、何にでも描いた。 | |
1982年作「赤い花」 |
どの絵も、なんの縛りも感じさせず、のびやかに心のおもむくままに描き、好きな
色で彩色したという作品ばかりで、見ていて楽しく、心が温まる。画家・岡本太郎が
言った「うまく描いてやろうと、余計なことを考える大人の絵は、まことにつまらな
い」という言葉が、頭をよぎった。 順二さん亡きあと、家族はお世話になった人たちへのお返しのつもりで画集 『大空 をキャンバスに』を出し、平行して美術館もオープンさせた。「皆様に愛され、育て られ、励まされ、そして絵を描くことで、多少なりとも我々に勇気とやすらぎを返し てくれたように思います」と、父・勝さんはあとがきに記している。 |
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1999年作「貴婦人」 |
もう決して会えないのは残念だが、じっと絵をみていると、順二さんのやさしい
まなざしがそこら中にあるように感じられた。館内は、常設展示室と、企画展示室、
兄・卓也さんが営む喫茶室に大まかにわかれており、時にはコンサートなども開か
れ、人々の交流の場にもなっている。 |
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1988年作「バス停」 |
所在地 | 千葉県沼南町大津ケ丘1−41−5 |
TEL | 04−7106−7272 |
開館時間 | 午前10時〜午後6時 |
休館日 | 木曜日 |
アクセス | JR柏駅より「大津ケ丘団地行き」のバス乗車。「大津ケ丘1丁目」下車。徒歩1分。 |