2006.11.10 


<庭野すみれの なんでもウオッチング>
ARTLINE Kashiwa 2006 
<切なく美しい言葉のカケラを拾いながら観た>

(記)庭野すみれ

錬肉工房公演「月光の遠近法・抄」


まず公演のチラシを手にしたとき、これは観ておいた方がいいぞという気がした。
なぜなら、「錬肉工房」という劇団名からして、ただならぬものを感じたからだ。
よくわからないが、精神と同時に肉体を鍛錬し、舞台でそれを駆使するという意味だろうかと、とりあえず解釈した。

さらに演目が「月光の遠近法・抄」という何やら哲学的で、これまた見捨てておけないタイトルなのだ。
それほど演劇に精通しているわけでもない普通のおばさんにとっては、今までお目にかかったこともないような演劇であろうことが想像され、大いなる期待と同時に、若者風に言えば「びみょう」な気分もかかえながら会場に入った。

この作品は、現代詩の前線で活躍する高柳誠氏の「廃墟の月時計」をモチーフに、柏市在住で同劇団主宰の岡本章氏が演出と構成を手がけたもの。
岡本氏は、現代演劇に日本古来の能や狂言を積極的に取り入れるなど、型破りの手法で高い評価をうけている気鋭の演劇人である。

11月12日、午後6時。開演の時がきた。客席の照明は消され、甘く切ない音楽が流れ、やがて能や狂言にみられる摺り足よろしく演者がしずかに登場、そこだけにスポットが当たる。
まさに月光に照らし出された「肉体・廃墟」と、そこから発せられる強烈な「言葉」の切れ切れが浮かび上がる。

「さー さー さー・・・・・さら さら さら・・・・ひかり ひかり・・・ひかりはさらさらとながれ わたしのひふというひふを潤し
わたしは内側からすき通ってゆく」


こうして文字に書くとつまらないが、のっけからすごい言葉のアクションだ。
語り口も歌舞伎や能・狂言などの伝統芸能に見られる、ゆっくりくっきりしたものである。

問題は内容であるが、岡本氏がニュース映像で目にしたというボスニア紛争で廃墟と化したサラエヴォ市街地、平安朝の貴族で、世に河原左大臣といわれた源融(みなもとのとおる)の亡霊を題材にした世阿弥作の夢幻能「融」、姉弟の禁断の愛を描いたギリシャ悲劇「エレクトラ」、これらが下敷きになっているというから、ちょっと複雑だ。

幼い日、ナシの花びらを敷きつめた庭で甘美なときを過ごした姉と弟。

だが、母親と姦夫によって父が殺されるという悲劇が二人を襲う。
そして復讐を誓う姉弟。互いの記憶のなかで、弟はクチナシのにおい、姉はナシの花のにおいを宿していた。
その二人が月光したたる水面で再会する。
亡霊となった弟は、なつかしいナシの花の匂いに導かれるようにして、やってくる。

悲劇によって引き裂かれた二人が、互いに中空の月と水面の月のように相照らし合うという表現が、なんとも美しくまた切なく、観る者の胸にせまる。
この死者たちの声は何を伝えているのだろうか。
現在が遠ざかり、過去がよみがえるという設定に「遠近法」の意味がどうやらわかったような気がした。

「わたしのからだは廃墟 月光したたる廃墟」。


何度も繰り返されるこの「廃墟」という言葉と、白々と照らし出された舞台を観ているうちに、私は9・11で廃墟となり、「グラウンド ゼロ」と呼ばれるニューヨークのあの場所を思い浮かべていた。

さらには、「日本も核を」などと聞こえてくる恐ろしい言葉が耳によみがえり、地球そのものが廃墟になる日を連想させるのだった。
親からの虐待や戦争で、非業の死をとげた者たちの声に耳を傾けながら、今の世を生きていかねばと思った。

私語ひとつなく、息を詰めたように静かだった場内。
磨き抜かれ、ふるいにかけられた言葉のカケラたちを懸命に拾いながら観た。
あの舞台の美しくも異様な光景は、当分わたしのなかから消えてくれそうにない。







姉と弟の甘美な愛はある悲劇によって打ち破られる。
弟は死者としてよみがえる。
月光したたる廃墟となってよみがえる。